-平成11年6月あやべ市民新聞「風声」掲載
夏が来る度に親友Sのことを思い出す。彼とは中学二年の時に出会った。同じクラスになって、しばらくして親友になった。確かボクから、まるで初恋の人に告白するように、「一生親友でいよう」と宣言したことを覚えている。そして宣言通り、ボク達は親友として中学時代を共に過ごした。中学を卒業し、ボクだけが故郷を遠く離れた滋賀県の高校に進むのだが、その後もずーっと連絡を取り合い、親友でありつづけた。成人して、お互いの結婚式にも行ったし、家族ぐるみのつき合いもした。
その彼が平成四年の夏、突然に亡くなる。一生親友でいようと誓い合った二人の約束を反故にして、逝ったのである。海水浴中、一瞬の波に呑まれたのであった。三十八歳の短い人生。訃報を聞いて、涙で目の前をぐしゃぐしゃにしながら、彼のもとへと車を走らせたことを今でも昨日のように覚えている。
日蓮上人の言葉に「命は限りあることなり。すこしも驚くなかれ」(法華証明抄)とあるが、あの時の驚きと悲しみほど、胸を痛めたことはなかった。でもあの時の彼の死をもって、命に限りなることなし…という真理がボクの心にインプットされたのであった。彼はその時から、ボクの心に生き続けているともいえる。夏が来る度にそのことを思い出している。
人は誰でも、この世に生まれ出た瞬間から確実に死に向かって歩みを始めている。紛れのない真実である。といってそんなことを常に心に思って生きている人はまずいないにちがいない。もし本当にそう思うのなら、この世は誠にせわしくて、とてつもなく切なくて、楽しくもなんともない世界になってしまうからだ。でも死はやはり突然に訪れるものなのである。
「覚悟はあるか」と聞かれたら、もう何十年も僧侶をしているくせに、なんとも頼りない自分を感じている。正直な気持ちである。親友Sに「あいかわらず情けないやっちゃな」と笑われているのかも知れないが、それも良しとしたい。そんなことを思いつつ、今年も熱い夏を迎えることになるのだ。覚悟はないが、彼の忌日にまた「死に習う」ことができるのだから…。「死に習う」とはいつも死を心に置いて、一瞬一瞬を懸命に生きるということである。一生続く親友からのメッセージである。
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