A, 『続日本紀』文武天皇三年(699)の項に出ているので実在は確かです。しかし日本霊異記をはじめ伝説的に伝えられています。一般には聖徳太子が亡 くなられて12年後の舒明《じょめい》天皇の六年1月1日(634)に生まれ、文武天皇5年6月7日 (701)に昇天したと伝えられますから、崇仏《す うぶつ》派蘇我《そが》氏と排仏《はいぶつ》派物部《もののべ》氏の争いや、大化改新、壬申《じんしん》の乱、律令制度の制定など激動の時代に活躍したこ とになります。

A, 葛城山の麓、今の御所市茅原で生まれ小さいときから博学でした、葛城山に籠もりこの山脈に二十八の霊所を設け、それが法華経二十八品の経塚として今 も巡拝修行されていますし、さらに熊野から入山して大峯山を開きました。それが大峰奥駈《おくがけ》の道として、一部分が女人禁制を守りながら伝えられて います。山上ヶ岳で蔵王権現を感得し、箕面の瀧窟に入って修験の真髄《しんずい》を悟り、さらに生駒で二鬼を従え、各地で雨乞いや止雨の霊験を表して里人 を救い、山に道をつけ神祇《じんぎ》を祀り全国の山や寺院に開創伝説を残しています。

A, ある伝記によると叔父願行《がんぎょう》が仏教の基本を教えたということになっていますが、山は神霊の世界とする日本古来の山岳信仰を自然に身につ け、山の神と交流する苦修練行の中で自分を研きましたから、行者さんの持っておられた能力を引き出した大自然が師匠だとも言えるでしょう。

A, 正式に出家した僧ではありません。在家で仏道修行をする「優婆塞《うばそく》」という立場でした。また役行者が修験道という組織を作ったのではな く、「大峯の嶮巍《けんぎ》を攀《のぼ》って葛嶺の深邃《しんすい》を撥《はら》ふ者は皆、役を祖述《そじゅつ》し・・・」と『元亨釈書《げんこうしゃく しょ》』にあるように、平安から鎌倉時代にかけて修験者が組織化する中で開祖にあてていったようです。

A, 渡都岐白專女(とつきしらとうめ)といい、金の独鈷《とっこ》がお腹に飛び込んだ夢を見て役行者(幼名「金杵麿《こんじょまろ》」)を生みました。大峯に 修行している行者に会いに行ったとか、配流の行者が捕まらなかった捕吏は、母をつかまえ囮にして孝心あつい行者をつかまえた、あるいは行者は入滅に際し鉄 鉢に母を乗せて唐に渡ったなど、各種の伝説があります。(父親のことは伝記には出ません。)

A, 役行者1100年の御遠忌を執行するに際し、寛政11年1月25日、光格天皇が行者の徳を讃え、勅書をもって「神変大菩薩」と名付けられました。勅書は現在重要文化財に指定され、聖護院門跡に伝えられています。

A, そのすべてが事実であるとは言えないと思いますが、それほど役行者を慕う修験信仰が、全国的であったことのしるしでありましょう。また各地の山岳に は役行者のような宗教者がいたことは否定できませんし、それらの人々が開いた土地の寺々が、後世権威ある役行者伝説を取り入れたこともあるでしょう。

A, 平安時代の多くの歴史書や仏教書に、役行者の霊験や法力がすぐれていたことが上げられ、ことに日本霊異記に書かれてある行者の伝記の影響が大きかっ た。また国家仏教ではなく、日本固有の自然神を崇拝する民間信仰に根ざした、庶民的宗教が修験道であること。さらに出家在家を問わない、優婆塞という自由 な働きが、庶民の共感を呼んだことなどでしょう。

A, 『行者本記』『三才図絵』などの伝記によると、奥羽地方から九州に至るまで、90近い山や寺院を開いたことになります。

A, 役行者は朝鮮より渡来系の家系です。当時日本には正伝としての密教は伝わっていませんから、その呪術は朝鮮より伝えられた道教によるものではないか と考えられます。葛城の麓はそのような民族が多く住んでいたことが伝えられます。また孔雀明王経などは4世紀頃から翻訳が重ねられ、その呪文は特に霊験が あると伝えられ、漂流渡来民などによって行者にもたらされたことも考えられます。

A, 続日本紀によると、行者は呪術に優れていたが、弟子の韓国連広足《からくにのむらじひろたる》がその能力を妬いて「人を惑わす者だ」と朝廷に讒言し ます。当時道教の呪は在俗の者が使うことを禁止されていました。道呪をもって宮中の典医寮の呪禁師《じゅごんし》としてつかえていた広足の、権力欲がそう させたと察せられます。その背景には役行者が土地の有力者を使う威力を備えていたことに対する権力者の押さえ込みもあったでしょう。

A, 役行者の教えとして今の修験者は「六波羅蜜《ろくはらみつ》」の実践を目標としています。その中でも特に ”菩薩道の実践”を掲げています。また法華経の教義を受け継ぎ、葛城山脈中に二十八の経塚を定められ、巡拝修行が続けられています。また護摩の観念に自己 の迷夢を覚ます理護摩《りごま》が、釈尊の降魔成道《ごうまじょうどう》の禅定と一致するものです。

A, 祇園祭の山鉾は、地域の町衆ごとにいろいろの山や鉾を作って、まつりに参加したところから始まります。役行者信仰の厚かったこの町内は応仁の乱より 古い時代に「役行者山」を作って、役行者と葛城神・一言主神をまつり、聖護院のお祓いを受けて巡行に参加します。修験道は古来神仏混淆の宗教ですから、神 社の別当をつとめ、神社の中に坊を経営していたこともあります。祇園社は仏教名は感神院《かんじんいん》といい、聖護院もここに別当をおいていました。

A, 傾斜している坂道は降りるにしても登るにしても、一本歯でないと足が水平に保てません。常に修行している役行者は特にバランス感覚がよかったので しょうね。しかし現存の役行者像は二本歯が多いようです。一本歯は天狗信仰が影響していると思われます。

A, 法華経だといわれます。

A, 生駒の山中に住んでいた二鬼が、たびたび里人に災いをなすことを聞いた役行者は、法力でこれを説き伏せます。以来夫婦の鬼は、前鬼《ぜんき》・後鬼 《ごき》と名付けられて一生役行者に付き従い、その修行を助けたといわれます。参考までに、五人の子供がいたのですが、役行者によって土地が与えられ、五 つの寺を経営して住みついた場所が大峯の山中に「前鬼」という名で残り、現在小仲坊という一ヶ寺が残っています。

A, 役行者三十八歳の時山上ヶ岳で、この山の守護をしていただく本尊の出現を祈られたところ、諸仏の示現のあとで天地を轟かして蔵王権現が現れました。 役行者はこれこそ三世にわたっての衆生を教化される尊であると、櫻の木に蔵王権現を彫り刻まれ、山上ヶ岳と吉野金峯山寺に安置されたところから、修験寺院 に多くまつられるようになりました。

A, 役行者三十八歳の時山上ヶ岳で、この山の守護をしていただく本尊の出現を祈られたところ、諸仏の示現のあとで天地を轟かして蔵王権現が現れました。 役行者はこれこそ三世にわたっての衆生を教化される尊であると、櫻の木に蔵王権現を彫り刻まれ、山上ヶ岳と吉野金峯山寺に安置されたところから、修験寺院 に多くまつられるようになりました。

A, 役行者が感得された姿を、そのまま伝えているのです。一説には涌出されそのまま天にかけ上がろうとした姿、ともいわれます。

A, 蔵王権現は、金剛蔵王菩薩の化現といわれているところから「菩薩」という説があるようですが、仏を母胎として、権(かり)に現じた神の姿なのです。 したがって「権現」というので、あの厳しい山岳を守護し、後世強情の衆生を教化するには、お不動さまと同様に、悪魔を恐れさす忿怒《ふんぬ》の相を表すの です。

A, 修験道は天地自然に神仏の姿を認めていますように、どの経典でなければならないという定めは設けていません。しかし天台や真言の学問を取り入れなが らその影響を受け、一般に読誦される経典は次のようなものです。観音経や如来寿量品等を含む「法華経」・「般若心経」・「不動経」・「理趣《りしゅ》 経」・「秘密陀羅尼《ひみつだらに》経」・「阿弥陀経」・「本覚讃《ほんがくさん》」などです。

A, 本当ですよ、しかも方々にね。
前鬼後鬼に五人の子がいて、役行者は大峯を去る時それらに一つの土地を与え、「それぞれが坊を経営して修験の人たちの修行を支え、経営しなさい。」といっ たのです。それが大峯山中の前鬼(奈良県吉野郡下北山村)で、今では一軒だけ「小仲坊《おなかぼう》」を五鬼助という人が守っています。
かっては森本坊・中の坊・行者坊・不動坊もあり、それぞれ五鬼継・五鬼上・五鬼童・五鬼熊の姓を名乗っていましたが、明治初期から昭和三十六年までの間に山を出ました。
平成十七年夏、小仲坊で五鬼助・五鬼継・五鬼上の当主である若者が集まりました。山を出た人たちの新たな交流が今後楽しみです。
和歌山県粉河町の奥に中津川という在所があります。聖護院が葛城修行のおり必ず足を向ける所で、行者堂とその奥には熊野神社があり、修行の折には西野・亀 岡・前阪・中川・中井という五軒の老分が世話をし、護摩や餅まきなど村の祭りの準備をします。江戸時代までは士分扱いで名字帯刀を許されていたと誇りに 思っているのですが、大峯前鬼から移り住み、五鬼にならって中津川の「五家」と呼びます。在所の中を流れている谷は「前鬼谷」といい古くは古くは山伏村と も言われ、人々は谷の奥に住居を構えていた山の民です。
山上ヶ岳に最も近い登山基地が、天川村洞川ですが、ここは後鬼の子孫が住み着いたという伝説があり、護持院の一つ滝泉寺の初代は「後鬼妙道」と言い伝えられています。
鬼伝説は日本中到る所にありますが、大江山のように盗賊伝説だとか、安達が原の鬼婆のような妖怪的であったりです。しかし修験道の鬼伝説は役行者と深い関係を持って伝えられているのです。

A, 鈴懸を着たら山伏だ、という訳にはまいりませんね。まず山岳修行があるから山伏なんです。山に伏し野に伏す苦行の中からついた名です。
山伏は役行者や不動明王を尊崇する修験信仰の中から生まれます。正しい山伏になる為には聖護院の各種の行事、とくに修験講習会などに参加し、学ぶことと実践修行に参加することが大切です。