山門 延宝3年(1675)の大火で全焼した聖護院は創建当初の旧地に伽藍を再建。山門はこの時の建築で、300年以上を経て平成12年に修理された。 大玄関 山門正面にあり宸殿への入口である。内部には桃山障壁画の遺風を残す堂々とした老松が狩野永納、益信の筆によって描かれ、その構図は見るものを圧倒する。中の1面に筆による落書きが残る。 長屋門 門と居住スペースが一体化した建物を言うが山門の中に建てられているため門としての役割はなく、土間、納戸として使用されていた。 本堂 昭和43年に建替えられた。江戸時代の本堂と外観はほぼ同様である。重要文化財の本尊、脇仏は耐火式空殿と内内陣に祀られ、南北両面に収蔵庫を持つ形となっている。主な法要は宸殿で行われており、本堂は加行道場としての一面を持っている。 宸殿 大玄関、孔雀、太公望、波の間等内部の部屋は15を超え、狩野永納、益信筆による障壁画が130面にも及ぶ。宸殿は法親王が居住する門跡寺院の正殿である。書院作りの影響を強く受けているが、寝殿造りの形式を残し、宮殿風に造られている。 書院 延宝4年に聖護院が現在地へ移転したとき、御所の建物が移築されたと伝えられる。二之間に大床があるのは門跡寺院に多く、御所には稀という。 大玄関 <狩野永納、益信筆> 山門正面の宸殿への入口である。内部には桃山障壁画の遺風を残す堂々とした老松が狩野永納、益信の筆によって描かれ、その構図は見る物を圧倒する。中の1面に筆による落書きが残る。 孔雀之間 <狩野永納筆> 古来、孔雀は害虫や毒虫等を食べる喩えから、私達の身の回りの災いを駆逐し、こころの迷いを食べ尽くすとも言われる。西の4面には雄、雌、子供の孔雀が描かれているが、北、東の面に痛みが見られる。 太公望之間 <狩野永納筆> 一般に太公望之間と云われているが、西、北、東3面にそれぞれ異なる物語が描かれている。西面に宗代の詩人「林和靖」が、北面に東晋・宗の詩人である「陶淵明」と彼の好む柳、菊を門前に描き、家人が出迎えられている場面が描かれている。東面には「太公望」が描かれる。 波之間 <狩野永納筆> 長谷川等伯の「波濤図」が永観堂禅林寺に残るが、本図はその 波濤図を狩野永納が取り入れたものである。当時反目していたと云われる狩野派と長谷川派であったが、絵を学ぶ者同士の交流が有った事示す。