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■奥駈体験記

奥駈
  1. 吉野山人奥駈記
     -平成8年の奥駈記
  2. 渡辺敏子の奥駈修行記
     -平成9年参加女性の新客体験記

  3. 矢野秀武の奥駈修行記
     -平成11年参加男性の新客体験記

■渡辺敏子の奥駈修行記

-平成9年参加女性の新客体験記-
  1. お山が教えてくれたこと No.1
  2. お山が教えてくれたこと No.2
  3. お山が教えてくれたこと No.3
  4. お山が教えてくれたこと No.4

1.お山が教えてくれたこと No.1

 私は、登り坂でも本当に元気で歩かせていただきました。大声で『懺悔、懺悔、六根清淨』をうたいながら、(あ-、これこれ、これをしたかったんだぁ~)と思うと、とても嬉しくなりました。絶好のお天気、気持ちの良い風、刻々と変わる素晴らしい景色、珍しい鳥、可愛い野の花……これらの恵みに『ありがたい』という思いが自然に湧いてきました。「お弁当、半分!」の号令の時も、山で食べるおむすびは格別の味で、ついつい1個半のところを2個食べてしまいます。 しかし、苦しんで登っている人もありました。口はあえぎ、顔は地面をにらんで、一歩一歩、杖にすがって歩かれます。「人に迷惑を掛けないように」そう思って一生懸命、足をひきずるようにしておられました。お弁当の時も、無理やり1個を口に押し込み、この先の道中を案じながら、下を向いてもくもくと食べておられました。そんな状態で、最後まで歩き通すということは、素晴らしいことです。彼女を支えたのは、ご神仏様への信仰と、同行の人々の愛情に答えたいという気持ちでした。彼女の満行の時の喜びは、人一倍だったにちがいありません。しかし、お山の中で同じ瞬間、同じ場所で、同じ事をしながらも、私と彼女では、全く感じていることが違うのです。まるで、隣に座って、違う映画を見ているような気分でした。

そのときふと、人が何か辛い状況になったときの様子を思いました。身内の不幸や仕事の挫折、失敗など、そんな状況に直面したとき、周りは一切見えず、自分のことで精一杯です。きっと奉行さんのように「ただ歩いとったらええねんで。ばんごはんも、買いもんも、せんでええ。こんな結構なこと、ないやろ?」なんて言って、励ましてくれる人もあるかもしれません。木の根や枝葉が、いい足場をつくり、木陰をつくって応援してくれているかもしれません。けれども、残念ながら、彼女にはそういうことに気を留めて楽しむ余裕はなく、地面をにらんで、ひたすら頑張っていました。

私だって、何かの試練が与えられたとき、きっとそんな風になると思います。いや、苦労知らずの私は、もっともっとひどくて、座り込んでしまうでしょう。でも、今回お山はどんな状況にあってもたくさんのものが支えてくれていることを教えてくれました。ポジティブ・シンキングなんていっても、無意識はなかなかコントロ-ルできません。「前向きに考えよう」と思う前に、先に無意識に「もうしんどい」「いやや」と感じてしまうからです。しかし、どんなにしんどい状況でも、顔をあげ、周りを見れば、たくさんの恵みが与えられているのに気がつくでしょう。そして、そのこともまた本当の信仰心といえるのかもしれません。

大きな試練に直面して、顔をあげるのは、とても難しいことです。だからこそ日頃の、少しだけ憂鬱や悲しみを感じたときに、顔をあげる練習をしていこうと思います。そしたら、大きな試練を与えられたときにも、ちょっとでも顔をあげて、ご神仏様の恵みを見つけられるかもしれないと思いました。

楽しくお山を歩いたときと同じ気持ちで、ずっとこれからを歩いていきたいです。

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2.お山が教えてくれたこと No.2

 初めて奥駈けに参加する人は、『新客』と呼ばれます。そして、女性の新客は、出発の前日、荷物のチェックを受けました。私としても、自分の荷物は自分で持たなくてはいけないので、出来るだけ軽く用意していました。しかし、「タオル2枚、シャツ3枚、靴下3枚、歯磨き、歯ブラシ……はい、それ以外のものは全部おいていってください。」といわれて、半分以下になってしまいました。化粧品も虫除けスプレ-も外され、重いものと言えば、懐中電灯と水筒ぐらいでした。いろいろな薬や蚊取り線香などは、奉行さん方がもっていてくださるとのことでした。

さて、2日目のお昼ごはんのときです。その日は、朝の5時から歩いていて、途中何度も休憩があったし、一度目のお昼ごはんから、2時間以上も経っていたし、もうすっかり水筒が空っぽでした。そしたら、ある奉行さんが、たくさんのお茶をみんなにまわしてくださいました。それでも足りない人もあったのですが、今度は、ポカリスエットをあげておられました。見ていると、出てくるわ出てくるわ、まるで歩くコンビニのように、いろんなものが出てきて、それをみんなに惜しげもなく配っておられました。しかし、ここは山の上です。何日もそんなお店はなかったのですから、その人は今日歩いた道も、昨日の道も、道中ずっと背負ってこられたはずなのですが、信じられませんでした。

次の日、偶然、その奉行さんとバスで隣になって、お話しすることができました。その方は、いつも3リットルものお茶や水と、いろいろな食料、緊急の用意などを、自分で手をつけることなしにもっていたそうです。足が悪くなったり、具合の悪くなった人が出た場合、その人と行動を共にする為だそうです。夜中になってやっと宿にたどりつくかもしれないし、その人の状態によっては一緒に下山しなければいけないかもしれません。そのときは、そのひとを送り届けたあとで、まだ明るければ山をかけあがり、みんなに追いつくことになるし、もし暗かったら、自分の奥駈けの満行をあきらめなければなりません。「いつも60%の力で歩くようにしているから、今年のようにみんな順調だったら、ちょっと物足りないなぁ~。」と、笑っていらっしゃいました。

そして、そんな奉行さんが何人もおられて、私と同じようにお金を払って来られています。それも、私は、たまたま、お話しをしたからわかったのですが、そうでなければ知らずじまいだったでしょう。「それこそが私の奥駈け修行です。好きでさせてもらっています。」とおっしゃいました。

私は、高校時代の恩師の「強さとは優しさ、優しさとは強さ」という言葉を思い出しました。「荷物、軽くしていきや」という優しい言葉の裏に、必要なものはみんな持ってくれている大きな強さがありました。また、本当の強さを持つ人は、時や場所を選ばず人に優しくできるひとです。私も本当の意味で、強くて優しい人になりたいと心から思いました。 

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3.お山が教えてくれたこと No.3

 奉行さん方は、「みんなが満行して初めて『満行』」というのを、合言葉にしていらっしゃいました。1時間ほど歩くと必ず休憩があるし、一番遅い人に歩くペ-スを合わせ、お休みするときも「小休止」、「大休止」、「お弁当」を使い分けられます。登りでは後ろから押したり、下りでは楽に下りる方法を教えたり、いたれりつくせりのお世話をしてくださいました。

そして、もうひとつ、奉行さん方のかくれた合言葉は『我を出さない』じゃないかと思いました。奉行さん方は、たいへん仲がいいのですが、時々意見がぶつかります。「もうそろそろ、『お弁当』にしませんか」あるいは、「ここは、まむしがいそうだからもうちょっと進んでからにしよう」というふうに意見が分かれます。ところが、あと二言三言、話をしたら解決しているのです。私が横で聞いていても、どうして解決したのかわからないほど、早く、すんなりと決まり、あとには今迄と同じおだやかな空気が流れているのでした。全日程を通して、奉行さんが声高に話をされる場面には、一度も遭遇しませんでした。じまんばなしのしあいも、人を侮辱するようなとげのある言葉もなく、本当に品のいい素敵な行者さんでした。

4日目は朝から雨が降っていました。傘のない私は、帽子を傘がわりに用意していました。濡れるのは慣れているし平気でした。ところが、ほんの少ししか歩かないうちに、総奉行さんが、「君に傘の良さをわかってほしい」とご自分の傘を私にかけてくださいました。普通に「貸す」といわれれば、お断りするのですが、そんなふうに言われるとお断りできません。その優しさに、また感動しました。その傘は特別製で、胸のあたりまで、ちっとも濡れません。柿しぶが塗ってあって、風通しがよくとても軽いし、少々の落石を跳ね返すぐらいしっかりしていました。パラパラと雨のあたる良い音もします。ところが総奉行さんは眼鏡までびしょびしょに濡れておられました。

私は、「総奉行さんに悪いな~、悪いな~」と思って歩いていたのですが、せっかく貸していただいて、そう思って歩くのも悪いので、「総奉行さんは、きっとご神仏様に傘をきせてあげたんだ。そして、わたしのこの傘は、ご神仏様が貸してくださったんだ。」と考えなおし、「ありがたいな~、ありがたいな~」と思うことにしました。

そのうちに、私がいつも「悪いな~」と考えていたことに思いを巡らせました。しっかりと養生しても不健康な人もいるのに、不養生の私が人一倍健康であること、良い性格なのに誤解されてばっかりの人もいるのに、人に冷たく自分に甘い私がどこへいってもかわいがってもらえることなど、いつも「悪いな~」と思っていました。これも、ご神仏様のプレゼントかな?……そう考えるとありがたくて涙がでました。

大先達、先達、総奉行さん、奉行さん方、そのほか同行のすべての人々から、とても良くしていただきました。これらのご恩は、その方それぞれにお返しすることは決してできません。そのぶん、自分の周りにいる困っているひとにご恩をおかえしするべきなのでしょう。なかなかできませんが、お山でいただいた愛情を思い出しながら、やっていこうと思います。

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4.お山が教えてくれたこと No.4

 聖なるお山の素晴らしい景色のなかにあっても、「今日の行程はあとどれくらいかなぁ~。」とか「夜のお食事はなんだろう?」など、先のことを考えてみたり、休ませてもらった職場のことなど今考えてもしょうがないことを心配してみたり、心はなぜかふらふらしていました。

お山を歩いていてとても集中していたとき、自分の身体が、自分のものではない感覚におちいりました。普段、私達が意識しないうちに呼吸や消化吸収をしているように、そのときは、疲れや背中の荷の重さなどまったく感じなくて、リラックスしていました。身体は身体で勝手に山登りを楽しんでいるような感覚です。それでいて、とても冴えていて、タ-ザンでも忍者でもなんでもできるような感じでした。心は、なにも考えていませんでした。ポ-ッとしているのとはちがい、後ろにあるものまで見えるぐらい研ぎ澄まされた感覚でありながら、なにひとつ考えていないような気がしました。考えるとすれば、ご神仏様への感謝、自然の恵みの素晴らしさ、役行者様のことなどです。

今のことだけに気持ちを集中すれば、たくさんの恵みに幸せを感じることもできるし、『同行二人』というようにありありとご神仏様を想うこともできます。私にとって『奥駈け』は恋焦がれるほどやってみたかったことですので、心から楽しんでいましたが、その思いは長続きせず、心は勝手に未来に、過去に、京都へとさまよってしまいます。

お山にいるとき以上に日常生活では、心はさまよっています。洗濯や買い物、食事の用意など、慣れたことをするときは、ほとんどと言っていい位、他のことを考えています。しかし、今現在していることだけに集中すれば、安らぎを感じられることを、お山は教えてくれました。

日本には、『〇〇道』と『道』のつくいろいろな技があります。茶道、華道、弓道、書道など、どれもさまよいがちな自分の心を解放してしまい、今していることだけに集中していきます。日々の雑多な物思いから、「いい作品を作ろう」という欲望までも捨ててしまえば、よけいな力みのない美しい所作となり、素晴らしい作品ができあがるようです。

人によっては、写経をすることだったり、陶芸だったり、『道』が付く、付かないは別にして、誰もがそういう時間を求めているのかもしれません。 神道や修験道なども『道』が付いていますが、私はまだよくわかりません。ただ、いろんな『道』があっても、終点はかわらないような気がしています。そして、奥駈けの終点より、奥駈けの山道・けもの道そのものが素晴らしいように、『〇〇道』の終点よりも、道を一歩一歩進んでいくことが素晴らしいんじゃないか、と感じています。

人間に生まれてきた私には、歩くことが許されています。それは、もしかして、恋焦がれるほど待ち詫びたのかもしれません。その喜びを、今に集中する力に変えて、明るく、素直に、楽しく歩いていきたいと思います。

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